エスノグラフィアプローチ ~“青空ごはん”の価値をどのように見つけ出す?~第2回マーケティングサロン
<1>“青空ごはん”を探ろうとしたきっかけ
今日は、“エスノグラフィ”というリサーチの手法の、大きな考え方、やり方をベースに、それをやることで、どういった事が分かるのかという所をお話ししたいと思います。非常に観察的というか、小さい事実の発見から、物事を見ていくというお話です。今日の主たるテーマとしては、青空ごはんという視点、ものの見え方を整理してお話したいと思います。
青空ごはんとは、何かといえば、文字通りで、外で食べる飯、という事です。一番のメインは、誰でもわかるように、キャンプで食べているご飯。キャンパー達が集まって食べているご飯、とあっさりと考えても良い訳です。正直言うと、個人的には、キャンプで食べているご飯のことにそれほど興味がある訳ではないです。でも、何かが変わっていっているのかもしれないなという感じはあります。
60代位の男には多いんですが、私も高校時代は山に登っていました。青空で食べる飯はうまいというのは、まさにその通りで、原理原則そうだろうと思います。実は、青空ごはんをしっかり調べてみようかなと思ったのは、この写真・・・これ、去年の春先に娘と一緒にだした本がありまして、それの末文にいれましたけれども、お弁当の写真です。これ。おにぎり、から揚げ、卵焼き、プチトマトがはいっているお弁当。
日記調査の中で、65歳の女性が書いていた日記かな、ご夫婦でこのお弁当をもって、護国寺に行ってるんです。お墓参りです。で、そのついでに、周辺でこのお弁当食べているというシーンが出てくるんです。これは素晴らしいシーンだなと思いました、美味しい、美味しくないは別として、非常に価値のあるシーンだなと思いました。から揚げはたいしたメニューではないけれども、価値の高いシーンだと思っています。これが青空ごはんの真髄ではないかなと、ふと思ったのが、入り口です。きっと何かこういう事が、世の中には一杯あるのだろうなという思いがあります。
これは、僕の概念でいうと、青空の下で食べている二人飯というものです。カッコいい言い方で言うと、デュオめしという言い方をします。キャンパー達が使っている言葉でデュオキャンという言葉あります。二人でキャンプをやるということです。 65歳を過ぎたご夫婦がやっていることに私はものすごく美しい価値があると思って、これが18~20歳の恋人同士がやっていても、なんともない。連れ添って40年位経っている二人になると、ごはん一粒一粒の味わいが分かっていると思います。 これは、やっぱり、なかなか面白いなと、家の中で食べているシーンと比べると破格に違うんだなと。家の中で食べる食というのは、私の長年のイメージから言うと、衰退していく以外の何物でもない。価値としては、一番低い食シーンになっていってしまったというように思い続けています。残念ながらですけれど。ただ、そうじゃないところで本当に価値を持った食シーンというのは、多様に広がっていってるんだなというのが見えるという感じがしています。
ここからエスノグラフィの話がでてきますけれども、こんな事はどうやって調査したらいいか、ふと、ある瞬間に登場したこのシーンの価値というのは、通常のアンケートなどとは違うアプローチをしなければいけないんです。先ほども言ったように、キャンプで食べているご飯がどうしたこうしたというのは、別に重要ではなくて、でも、このキャンプならキャンプという、外で食べているシーンでどんなことが起こっているのかなという中に、鍵が潜んでいると思いました。
これは、典型的なエスノグラフィの調査と思ってもらって結構ですが、系統だった計画的な調査というより、ある意味、行き当たりばったりみたいな所もある調査です。
<2>「ラーツー」から発見した“ソロ”めしの価値
今の時代は比較的便利になって、利用できるツールが増えています。こういうツールは使った方が良いので、この時はSNSを使いました。フェイスブックの、「ソロキャンプ」「みんなのキャンプフィールド」「キャンプっていいね」という3つ、大体、1万人位参加者がいるSNSです。別に少人数でやっても価値はあるんですが、要するに1万人位いると、その中ですき者というのは、少なくとも、4~500人いるといえますから、そこそこの確率で色んなものをアップしているという期待は持てる訳です。去年の4月から、約一か月、文章よりも写真が多いので、ずーっと、日々眺め続けました。記憶でいえば、総計1万5千枚位の写真を見たと思います、「なるほどね、なるほどね」と思いつつ、もちろん、下世話な興味で言うと「そもそもどこのキャンプ場に行っているの?」とか「やっぱり富士山の麓は人気があるんだ」とか「数寄者は道志川に行くね」とか、いろいろあるんですが…まず、最初に一つ気が付いたのが、ソロキャンプって、相当の技量がないとできないんですよ。一人で行く訳ですから。その中で、当然、食事も一人です。で、この食事が得も言われぬ程、素晴らしいんです。原データは後でお見せしますけれども、このSNSっていうのは、慣れていないと困る所があって、そのサークルだけで通用する略語が多いんです。ソロキャンで、こりゃすごいねと思ったのが「ラーツー」というのがあったんです。なんだと思ったら、要はカップラーメンを食べるためにツーリングをしてるんです。キャンプしている人達は、バイク乗る人が結構多いんです。今どきバイク乗っているなんて、変わり者というか、少ないですから。
で、そのバイク乗っている人の話。この人は、私の推定では、群馬の高崎辺りに住んでいる人なんです。バイク乗って、赤城山の上まで登っているんです。赤城山って、上に湖があるんですね、カルデラですから。その畔で「ラーツーをしました」って書いてある。要は、カップラーメンですよ、それをバーナーで沸かしたお湯で食べているだけ。でも本当に旨そうに見えるんですね、そのためにすごい手間暇かけている。行って帰ってだけで3時間半かけている。たかがカップラーメン一食です。お湯を沸かすために、バーナーも持っていく、要するにギアもちゃんとしたものを使っているわけです。普通の家庭人から見れば、たかがカップラーメンにそんなにするのかい?という感覚でしょうけど、想像するに、食べた本人には、やっぱりこの食は旨いでしょう。これは価値があるんですね。
価値があるというのはどういう事かというと、まず、ひるがえって、家庭での食事を考えて見ると、私が家庭の食事は価値が低くなっていると思うというのは、第一に、手間暇をかけていない。時間かけていない、ギアにこだわっていない。これが食べたいというイマジネーションを持った材料を使っていない。赤城山の「ラーツー」にはそれが全部あるんです。だから、これはすごいものだなと思います、この瞬間は幸せを感じるものだと思います。食から、なんでこういう価値が奪われていったのかというのをすごい疑問に思っているんで、やっぱり「ソロ飯」というのは、とても大切なんだろうと思います。
で、ここから、少し話が跳びますが、誰か、この「ソロ飯」に「孤食」という名前をつけて貶めた人間がいるんですね。そういう人達は懺悔した方が良いと思うんですけど。「孤食」の何がいけないのかと、「孤食」こそが手間と暇と、ギアに金をかけた食事になっているじゃないですか。この赤城山のラーツーなんて、時短に最も反してる食事です。これは私は価値があると認めています。これが食事の中で価値あるシーンだと感じています。
で、そういう目で見ると「ソロ飯」というのは侮ってはいけないんだなと思います。というのは、これは赤城山の美しい風景のもとで食べているという前提があるんだけど、家の中で食べても、多分「ソロ飯」はもっと大切なものが込められている事があるんだろうなと思います。
<3>アヒージョ、ピザ、串揚げの価値
あとは、そのキャンプのサイトをずっと眺めていくと、仲間と行っているとか、三世代で行っているとか、そういうのもモチロンあって、それはそれで素敵だと思います。二子玉辺りなんかだと、多摩川の河川敷でバーベキューやっている人達もいますね、結構、隣がうるさいとか、夜に火を焚くなとか、もめたりもしているようですが… グループでキャンプに行ってる人達、そういうシーンの中に、どういう食シーンがあるのだろうと見ていて思ったのは、そんなご馳走食べている訳じゃないんですが、例えば、ユニークなもの食べているなと思った第一は、家庭の食事では一番やったらいけないのは、油もの、フライでしょう。これは自宅で作らない、というのが一つの原則になっている。実はキャンプで、フライをやっているシーンは結構出てきます。コールマンのバーナー使ったりとか、あとは意外と便利なのが、イワタニのガスコンロ、これは使っている人が結構多いです。キャンパーだから、一概に、本格派のギアを使っていると思ったらいけないです。あとは、イワタニのガスボンベの利用だったら、五徳状のものもあったりして、みんなそういった物も使っています。そういうギアの利用もあって、フライものというのはすごいよくやっている。その中で、これは抜群に旨そうだなと思ったのは、串揚げです。オッサン3人位でやっていました、100本位串揚げを食べているんです。これは、旨そうで、家ではやらないことです。手間もかかるし、時間もかかるし、面倒臭いし、この場面でしかできない価値あるシーンだと思いました。
あとは、なるほどねと思ったのは、アヒージョの登場する率がとても高いんですね。アヒージョはとても簡単な料理なんです。簡単だけど、家では絶対にしない料理のひとつです。キャンプでは結構出てきます、オリーブオイルがあれば良いし、あとは、結構良いココットやスキレットを持って行ってやっていたりもする。娘達の世代に聞いてみたら「家でアヒージョ?バカじゃないの」と一蹴されると思います。
次に良く出てくると感心したのは「ピザ」です。手作りのピザを焼いています。冷凍のピザでも良いんですが、ちゃんと自分で作っています、上に乗っているものは大したものではないんですが、このピザを焼いています。そんなに苦労しなくても、ダッチオーブ
ンで焼けますから。こっている人は自分で石組み組んで焼いているみたいなシーンも出てきます。
要は家でやらないものをやっているんです。通常、「なんでこれをやりたくないか?」というキーワードがいくらでも出せる料理ばかりですよ。アヒージョを家でやるというのは、「オリーブオイルをそんなに使ってもったいない」「暑い」色んな理由がつけられます。ピザなんて家でやるなんて出てこないし、串揚げは絶望的にダメでしょう。こういうものが沢山でてくるんです。あとはなるほどと思ったのは、燻製ですね。これは外シーンじゃないとできないのは間違いない。そういうキャンペーンをメーカーがやっていたりもしたんですね。雪印の6Pチーズは本当に燻製に向いているんです。これも単純にダッチオーブンの上に置いておくだけでいいんです。
ベースとしては、当たり前のように肉は焼くというシーンは出てくるんですが、意外と少ないんです。
あとはこれはすごいなと思ったのは、「おでん」をやっていますね。私が調べたのは、4,5月です。青空ごはんに向いている、ちょっとキャンプができそうな場所というのは、大体、標高500~1000メートル位にありますから、4,5月は寒いんです。みんな「寒い、寒い」と書いています。寒いという事を念頭において、何をするかというと、やっぱり「おでん」は出てきます。あとは「ポトフ」とか。そういう、家の中ではやらない、手間と暇と労力とか色んなものをかける、でも材料はそんな大したものではない、みたいな物をよく食べているというのが感心した点です。ある意味、家の中で拒否されたものが、価値あるものとして登場してくるというシーンが世の中にはあるんだなと思いました。ただ、これは明らかにマスではないです。全体の10%位のものだと思いますし、加えて言うと、頻度でいうと1年で沢山登場するという訳ではない。
<4>カレーが落伍者になってしまった
あとは、私の経験から言うと、キャンプの食事と言えば、私達の時代は、カレーは絶対なんです。で、大きな鍋でカレーを煮てですね、落ち葉が入っていたりもするんです(笑)夜になって暗くなってくると、中も見えなくて、闇鍋状態になります。これが最高級のメニューです。で、カレーは時間がかかります。よせばいいのに、青少年が集まって、じゃがいも、人参、切ってですね。カレーのルーを割り込んで、手作りで2時間以上かかります。このカレーの味というのは最高の味覚です。
60代よりも上の世代にとって、美味しいカレーというのは“妻の味”じゃない、“母の味”でもない。カレーというのは、青空ごはんとしての価値を持っているんです。それは美味しいなと思ったので、家庭の中でも、子供達に、そういう時だけはお父さんがハッスルして、カレーを作って、みんなでカレーを食べようよと。ウチの子供達も、小学校3、4年生位までカレ-を食べさせられていたと思います。この時までカレーは価値がありました、ある時から、価値が低下していきます。この青空ごはんの場面も、本当にカレーが出てこないんです。要するに楽しくないんでしょうね。もうカレーを作るという事が、価値のある行為と見えなくなってきているんでしょうね。理由は色々あると思います。さっき言った、手間・暇かける、ギアも色々凝る、こういう要素から、いつからかカレーは落伍者になっていってしまった。これはメーカーの責任だと思います、カレーは「簡便だ」と言ったでしょう。「カレーは難しい」と言い続けないとダメです。難しいけれども、ウチのカレールーを使えばとても美味しいものができます、と言い続ければカレーの価値は下がってない。
で、簡便の挙句、レトルトになります。あの商品がダメとは言いませんよ、良い商品だと思います。ただ、どんどんそうやって、カレーを価値の低い物にしていってるんです。今は、カレーというカテゴリーの商品の中で、ルーとレトルトの売り上げが逆転して、レトルトの方が大きいんです。レトルトのカレーを持って、赤城湖畔に行って、お湯を沸かして、真空パックのご飯を食べて、「今日は幸せだった」なんて人はいないと思います。これは、人々が考えている事のどこに価値を感じさせてあげられるのかという事だと思います。企業の生き筋というのはこれは別の問題としてありますけど。行きつくとこまで行くとすごいなと思うのは、レトルトのカレーがどんどん高級化していっています、BEAMSがレトルトカレーを売っているんですね。疑問にも思ったけど、これは分かるような気もする、だって、レトルトのカレーというのは「ソロ飯」ですから、「ソロ飯」に豊かさを求めていくという、「孤食」と言えば投げ捨てたような印象ですけれども、赤城湖畔まで行って「ラーツー」やってくるのと同じように、カレーもこんなに素敵な食べ方ができるんだというのが見つかればOKでしょうね。これからは、レトルトのカレーは高級化・高度化していくと思います。BEAMSのカレーが売れていると思ってはいないけど、意味はあるでしょうね。野口君にその話をしたら「私はMUJIのカレーを食べています」と言っていた(笑)。バーモントカレーのレトルト食べるよりもMUJIのカレーという選択はあるのかもしれない。
シーンとしては、一人でレトルトを食べるというのは「エサ」ですね、言ってしまえば。それにバリエーションがいるのか?という疑問もあるんだけど、例えば、今日はキーマにしようとか、今度はナントカとか、ある選択のもとに行われているということは、ソロ飯というシーンが価値のあるものになっていくという一つの表れであると思います。マスマーケティングの対象になるとは思えませんけどね。でも、食というのは、そういったフェイズをたどっていくというのも一つの側面としてあるんです。それは、青空ごはんという概念を通して、とっても良くわかることです。
資料にカレーの現在・過去・未来と書いていますけれども、過去は私たちの時代です。カレーは面倒だったんです、面倒だけど、面倒だからこそ、価値のあるものを一生懸命作って食べていた、だから、家庭の中でもカレーというのはごちそう感があったんです。それは、高い牛肉を入れているとかそういう問題ではなくて、例えば、私は比較的料理をよく作るタイプですけど、カレーの時は、家族から「お父さん汗水たらしてえらい頑張っている」と思われるとか、そういう価値が存在しているんです。
もちろん、一人でお昼食べるから、レトルトでも良いかな?とかそういうシーンはあっていいんです。でも、価値のない食べ物になってしまうというリスクもある。それは、シーンそのものに価値がなくなっていくという事です。でも、もしかしたら、レトルトカレーにも未来があるのかもしれないと思うのは、BEAMSとかMUJIがやっているというのが潮流の一つだと思いますが、BEAMSも無印も、そんなことまで考えてやっているとは思いません、勢いで、良さげなものをやっていこうというノリだと思います。
でも、実態は、ソロ飯というシーンは価値があるんだという事です。そこにぶつかっているという意味では、野口君が食べているMUJIのカレーも価値があるんです。まさか家族で食べていないでしょう?(「夫婦それぞれ好きなものを選んでます」)なるほどね。それは、夫婦で食べていても、概念としてはソロ飯ですから。
私はこれから、「ソロ飯」と言い続けようと思っているんですが、「孤食」という概念は絶対に止めるべきです。孤食は悲惨極まりないものの代表選手でしょう。ロクな食事をしていないから、段々、人間おかしくなっていく…そんなことはないんです。ソロ飯は価値です。この第一歩のインサイトは私は青空ごはんから見たものです。青空ごはんの肝は、別にキャンプで何を食べているかということじゃないんです、こういうシーンに存在している価値のあるキーワードはなんだろうかというのを見ていった時に「ソロ飯」というのがあるんです。さすがに、家の中で炬燵の上で、お湯沸かしてカップラーメン食べていたら、ちょっと…というのはあるかもしれない。でも、これも考えようによっては、リッチなソロ飯になる可能性もあるんです。
<5>時間をかけることが生みだすこと
次にお話したいのが二人の食事、「デュオ飯」です。やっぱり素晴らしいなと思いました。これも青空ごはんからなんとなく感じたことです。さっきの、シニアの夫婦のお弁当もそうですけど、とっても素敵だと思います。これも自宅の中でできなくはないんです。二人飯という事です。世の中、おかしいなと思うのは、70代の老夫婦が、家でしんねりと食べている食事って、とても不味そうに語るでしょ。NHKのクローズアップ現代でも、老夫婦二人、ジジとババが食べている食卓ってとても不味そうに映すんです(笑)悲しい、涙がでそうな感じなんです。そんなことないんだな、二人で食べる食事が旨いんです。会話も要らない。なぜか?無言で通用するからこそ、二人が成り立っているのです。
あとは、やっぱり集って食べているご飯は美味しいねと思わせるだけの価値が青空ごはんにはあるんです。青空ごはんを見ているとやっぱりキャンプですから、沢山の人間が集まって食べていて、普段焼いていない肉も焼いています、確かに。これは美味しい。普段、共働きの夫婦が子供もいて、アヒージョなんか、家で作る訳がない。燻製でも作ってみるかなんて誰が言うかと。おでんも危ないかもしれない、カレーの二の舞になるかもしれない。そのうち、レトルトおでんでも食べておきなさい、みたいな感じで、あてがい扶持のものを食べていると落伍者になっていくでしょう。
やっぱり青空ごはんで食べている物は、さきほどの串揚げにしてもそうだけど、食卓で出てくるものよりもワンランク上。でも、全く見たことも食べたこともないというものは出てこないんです。どこかに体験があって、馴染みがある。アヒージョだって、中身はしれたものです。奇妙奇天烈なもの入っている訳でもない。おくらを何本か入れてあるアヒージョなんかもありましたが、美味しそうでした。あとは、しいたけとか。おでんもそんなに凝ったものではないけれども、ちょっとした違いを出す。
で、最後、私が青空ごはんを見ていて、やはり、ここにこそ人々が一定の価値を見出そうとするんだなと思ったのは、飲んでいるアルコールのレベルが違うんです。発泡酒なんてほとんど出てきません。これは普段、仕事帰りとかに、疲れて飲むものでしょう。それを青空ごはんで飲むかと言えば、やはり違います。最低限、モルツです。ビールがでてくるとすれば、その上の、クラフトビールが出てきます、すっごい多いです。キャンプに行く所というのは、ちょっと遠方が多いですから、地域特産のクラフトビールも売っています。
それから、なるほど、こういう所に需要があったのかと思ったのは、各地域のブリュワリー別に名前のついた「一番搾り」。例えば、仙台近くのキャンプ地で飲むのは、「仙台づくり」です。最低それ位の嗜みは必要だよね?みたいな感じです。
あとはワインが多い。価格は平均的なものです。一般小売店でいうと、1200円位のもの。私自身にとってはえらい高いと思うけど。普段は600円位のチリワインを飲んでいるから(笑)
あとは、びっくりしたのは、ウィスキーがよく出てくるんだな。それも、バーボンです、テネシーウィスキー。これは、場面そのものに時間の流れがあるという事なんです。だって、ウィスキーをロックで飲んでいるということは、1~2時間そこに座っていないと無理でしょう。それだけの時間の流れが、食べたものと同期してそこに存在しています。
昼間は太陽という最高の贈り物があるんです。太陽の光は人間を明らかに豊かにします。一方で、夜は焚火とか、ランタンの光、そういうファイヤーに近い光です。この灯りの下で飲むウィスキーはそれは美味しいでしょう。やっぱり自宅のそう高くもない、ペラペラの家具に囲まれて、ウィスキーを飲んでもダメでしょう。少なくとも、こういうシーンに似合う道具立てとは言い難い。だから、時間が違う、手間が違う、暇のかけ方が違う、そしてそこに求めている食に対する欲求が違う。飲んでいるアルコールを見た時に本当にそう思いました。
人によっては、キャンプシーンそのものがバーよりもすごい、イケテルんじゃないという人もいました。アルコールを見て、決定的に、青空ごはんの方に人々が価値を認めているということが分かりましたね。ただ、誤解して欲しくないのは、何もこれから、キャンプ飯をみんなで盛り上げようとかそんなことを言ってるんじゃなくて、人々が感じる価値がどこにあるのかなと思った時に、一つの整理になるんじゃないかと思ってるんです。そこに失敗するとカレーの二の舞になってしまうかもしれない。カレーというメニュー自体は本当はとても素晴らしいもので、リポジショニングしてやれば、必ず復権できると思いますが、そんなことももう考えていないんだと思います。
<6>時短・簡便などの対極を見つける
この青空ごはんというものを見た、この方法が典型的なエスノグラフィというアプローチなんです。集中的にスタディしたのは、20日間位、GW前から終わるまで位でした。それ以降は定期的に、ずっと送られてきているものを見ていますが、そんなに変化はないです。同じような事が続いていってます。
で、ひたすら写真を見ていくことによって、何が分かるかというと、すぐには分かりませんが、“なんで安いビールは出てこないのかな”とか、“なんでワインの登場頻度が多いのかな”とか、“なんでクラフトビールがでてくる訳?”とか、“こんなの見たことない”とか、“普段、見かけないメニューが出てくるのはなぜ?”とか、そういう視点がエスノグラフィの対象の一つなんですけど、私が見ようとしていたのは、価値があるものはなんなのかという事です、別に流行廃りがなんなのかという事ではなくて、どういう事に価値があるのかなという事です。
だから「ラーツー」という言葉も、このスタディまでは知りませんでした。でも、ラーメンも捨てた物じゃないと思います。ツーリング行って、あそこで食べたラーメンは旨かったなというのはあると思います。ここで見ていこうとするのは、流行り廃りが何なのかということではなくて、どういうことは家庭でもあるのかなということを見ていきます。
なんでうまいかと言うと何度も言いますが、手間暇がかかっているからです。手間暇かかったものはうまいです。それは間違いない事実です。手間暇かかってないものはやっぱり美味しくないです。人を感動させられない。というのがこの青空ごはんからわかったことです。
オープンエアーだから良いという、舞台装置としての価値があるのも事実です。 でも、蚊が多いとかそういう弱点もいっぱいあるんです。何も外で食べなくてもいいじゃないのとか。蚊と戦いながら串揚げ作るみたいなことにもなってるんです。後はやたら熊出るんですね。まあ当然ですよね。「怖い。一晩、眠れませんでした。」ってことも書いてあるんです。だったら、安全な家でやってた方がいいかもしれないね、ということもある。
ただそれを家庭で実現する時にメニューだけ持ってきてもダメだと思います。時間をかけるって事をお願いしないとだめです。これは手間がかかるし、暇もかかります、使う道具にお金もかかるんですと。まあ、材料はあんまり変わらない、でも普段つけている電気は消してランタンでもつけてみたらどうでしょう?ということだと思います。まあ、でも一年に三回ぐらいしかやらないですよ、間違いなく。でもその三回がその人の食に関する価値をアップさせるんです。
身近に知っていることですが、おでんって、一般家庭で作られるのは共働き夫婦で、お母さんが朝から作り置きのおでんを作っておいて、子供たちに、塾から帰ったらコレを食べておきなさいと言っておく、そういう本当に真面目なお母さんが真剣に手抜きをするためのメニューです。それすら、今、危なくなっている。でもね、集いの場面があった時には少し手間も暇も時間もお金もかけていいんじゃないと言うシーンもあるんです。それが紀文さんで言えば、お正月というものです。お正月は全員、手間暇時間をかけてます。そういう時に普段と違うおでんを食べてくれるようになればいい。さすがに正月から青空に行ってくれとは言いません。 集いの場面で価値のある事が出来れば。例えば、季節の良い時には、外のシーンで青空ごはんのおでんを食べる、みたいなことになると素敵だろうなと思っています。食べたことのない物はなかなか出てこないですが、おでんはそれなりに馴染みのあるメニューです。ただ、せめて、“コンビニで買ったおでんを野原ごはんで食べる”というような事は阻止したいなと思っています。それは、今言った“青空ごはんというコンセプト”から見た場合ですね。
<7>これがフィールドノート~高頻度低関与シーン~
今の時代、食シーンに手間・暇かけろというのは一種の暴論です。マーケターでこんなことを言う人はまずいない。料理研究家でもいない。マーケティングは基本的に売るためにあるものですから、手間がかからない・時間はかからない・死ぬほど安い・これが基本です。ただ、それじゃだめなんだということを僕は青空ごはんから教わりました。
この手書きの資料がお手元にあるでしょう。エスノグラフィやっていた時に、一番上の写真を見て、なんなんだろうなコレ?と。「うまそうな酒飲んでるな」とか、いろんなトピックスあるんだけど、 なんとなく、食シーンの全体を整理するために、登場頻度と関与度(価値)を軸にフレームを引いてみた時の図です。これを見ると「悪くないなソロ飯」と思いました。 これからますます増えそうだなあソロ飯はということになると、普段の食事とどっちにも相乗効果があるようなことが生まれると、食全体が豊かになるのかもしれない。図のセンターに書いてある日常の家族ご飯、これが一番頻度が高いんですよ。ただ実は関与度が最も低い。日本の食品メーカーも流通業も必死になってここを取りに行っている。そうじゃないこの周りにあるところをやって行けばいいねと僕は思っています。 もちろん一番大切なのは高頻度低関与のシーンであるべきだけれども、両方にまたがっていくバランスが非常に大切なんじゃないかと思います。
何でこんなふうになったのかと言うと、家の中で食べるご飯というのは基本的に標準世帯を対象にしています。お父さんお母さんと食べ盛りの子供達で構成されています。この標準世帯が食べている日常的な食事が最も価値のある食事だ、と考えている時代が日本にあったんです。1960年代から1990年代までです。でもその頃から社会は変わってるんです。標準世帯は今マイノリティになりつつあるんです。人口のシェアを見たらわかるでしょ。65歳以上のシェアが高い。15~65歳の生産年齢人口が激減しているんです、ましてや、そこにくっついている子供たちはもっと減っている。0歳~15歳で人口を見てもいま1500万位しかいないんです。そうするとどこに価値を持って行かなきゃいけないのかということを考えると、標準世帯中心主義で考えても駄目なんです。そこにとらわれていると、一人で食べているシーンは孤食と言って、貶めたくなるんです。じいさんばあさん二人で食っているのは寂しい老夫婦の食事と貶めたくなるんです。標準世帯の食事が一番大切だというのは一種の洗脳に近い。だから、こういうことは捨てよう。老人夫婦の寂しい食事という考え方も捨てよう。本当はねシニアというのは時間をもってますから、手間も暇も、それから一点集中だったらコストもかけられますから。100 グラム1000円以上のヒレ肉を夫婦で分けることもできるんです。そんなにいっぱい食べたくないからね、そういうことができる。標準世帯は豚肉以外買いません。
セグメンテーションとしての富裕層というのはありますけれどもそういう概念ではないと思います。シーンを捉まえていかないと。これを行動デザインとか行動ターゲティングとかいうんです、行動そのものを捉まえるという訳で、その行動を翌日しなくったって構わないんです、3ヶ月後にまたやってくれればいいというだけの話です。
<8>エスノグラフィの原点
エスノグラフィのアプローチというのは少し原理的な話をすると言葉そのものは民族学という言葉なんです。民族というのは例えば日本民族とかそういうことです。民族というものを調べていくときに使っている言葉です。それが原点ですけれども基本的には、はっきりしているのは習慣も文化も違う人間集団に対して、この人達何者なの?というのを調べに行ったというのがエスノグラフィのスタートです。
習慣、文化が違った場合、さっきの話で言うと、例えば“赤城湖畔まで「ラーツー」”みたいな事が書いてあっても分かんない。習慣が違ったらそれが理解できるまでには何回も何回も見ているしかないんです。まだ僕の場合は日本人同士なので何とかなります。写真見てれば「ラーメンとツーリングの合成か」と分かりますけれども、これが異質な民族空間にいると言語体系が全く違うので分からないんです。もっとすごいのは無言語に近い民族をアプローチしていくと全く近代型のスタディが成り立たないんです。だから、とにかく見ていくしかないんです。それも確率論なんです。その時はやっていたかもしれないけれども、次見たらやってない、みたいなこともあるんです、どっちが正解だなんてわかんない。だから繰り返し繰り返しアプローチをしていき、できればよくわからない文物を集めてくるんです。お面とかね。お面100枚それだけ見ても何も分からないです。でもそういうものの累積の上で「どうもこういうことかもしれないね」というところを見切っていく。前回話した林知己夫さんが B 29が来るのをずっと見ていたというのと一緒です、B29も天気がたまたま悪かったら来ない時もありますから。
エスノグラフィの本当に原点と考えて良いのはマリノウスキーという民族学者です。レジュメには名前だけ書いてありますけれども、「西太平洋の遠洋航海者」という本がありますけれども、日本語になっていて、とても面白い本です。ちょっと長いんですけれどもね、上下二段組の本で、次のページに行くまでにえらく時間かかるという本です。これはニューギニアのはずれにあるトロブリアンド島というのがありましてそこに三年ぐらいいたのかな、原住民 の観察をしているんです。でも、さっぱりわからない、やっと最終的にわかったというのは、その島の民族たちは大潮と 何かが重なった日にカヌーを漕いである島に行くんです。そのため一ヶ月ぐらい何もしないでカヌーばっかり作っている。で、目標の島に到達して、一回転して戻ってきて、また島に行くんです。その時に腕輪と首飾りを気前よく交換する。これはマリノウスキーにとっては価値が全く分からなかったそうですが、「クラ」という儀式です。でもつらつら考えていくと、「どうもこういうことなんじゃないか」という結論を出すことができたというのがこの本には書かれています。
もう一つ、レヴィ=ストロースという人の本があります。これはアマゾンの奥地に入っていきます。やっぱりよくわからない人たちの観察をしています。「悲しき熱帯」という本になっています。これがエスノグラフィの原型です。
現代風のエスノグラフィとして、SNSを見に行くというのも、私から見ればマリノウスキーと一緒で、西太平洋の原住民を見るというのと通じるものがあるのです。“何でここでこんな酒を飲んでるんだろう?”とか、疑問に思っていく、それがエスノグラフィというアプローチの一つの方向性だと思います。
オンタイムで見ていくのが行動観察ですから、リアルタイムでないものを見るためにはそれこそ文物とかそういうものを見るしかないですから、そういう時間軸をものすごく長くとっていくと考古学ということになると思います。エスノグラフィの方法というのはいろんなことに使えて 結構面白いです。
そういえば言ってなかったけれども、コーヒーも結構飲んでます。家でこんなに美味しそうにコーヒー飲んでないという飲み方をしています。家で使っていないギアを使ってるんです。ドリップする時にいいドリッパー使ってます。家では多分使ってないと思います。それから、マグカップが違う。家では多分使わない。なぜそういうことがわかるかと言うと、私もそうだからです。私も家ではこんな高いマグカップは使わんぞといったものが置いてあります。孫が使っているプラスチックのカップで私もコーヒーを飲んでいます。 そうすると「スノーピークのチタンダブルのマグカップはよく出てくるなぁ」とか「よくこんな高いもの買うな」と思うようなものが出てきます。時短、簡便という事とは、違う価値をもともとコーヒーは持っているのです。
<9>日常生活シーンへのエスノグラフィ
これはスナップショットという言い方をしてますけれども、対象者に写真を撮ってもらうんですね。それで、冷蔵庫とか家の中を撮ってもらった時に、巨峰とかシャインマスカットがいっぱい出てくる時があったんですけど、これはシニアが調査対象者の時です。50代60代70代の方が撮った写真です。例えば、ID POSのデータを 使ったらやっぱりシニアは裕福だということになるわけです。別に貧乏であってもこういう食にはお金をかける、かける余裕があるんだって事になってしまって、やっぱり品質の高いものを喜ぶシニアというおかしなことになっていくんです。これは100%とは言わないけれども7割5分ぐらいは、人にあげてます。違う言葉で言うと贈与です。誰にあげると言うと娘です。娘と孫だから、今の孫の世代を恐るべしというのは、三歳にして、シャインマスカット食べている訳です。私たち世代は年齢と共に食べるもののグレードが上がっていく、小さい頃からリッチなものを食べると、そいつの人生が曲がると教えられてきた世代です。こんなうまいカステラは二十歳超えてから食べろ、とか、カルピスを死ぬほど飲みたかったけども自立してから、飲めと言われたりもしました(笑)
下にメロンがあります。これも娘が持って帰るんです。これは三世代の贈与という関係を明らかにしています。これはデータを取ってもクリアにならないところがいっぱいあるんですね。定量データ見ても人にあげたものというのは出てきますけれども、僕の感覚から言えば低すぎる、もっと相当な量がやり取りされているはずです。
下にあるのは60代のシニアの車の写真なんですけれども、色鮮やかなチャイルドシートが付いてます。ということはこれも一種の贈与です。車をあげてないですけれども、使用シーンがこういうことになるんです。おじいちゃんおばあちゃんの家に行ったら子供はその家の車に乗るわけです。
この左の端の写真にはミネラルウォーターが出てくる、ウォーターサーバーがあります。何でこんなものが老夫婦の家にあるのかと言うと…健康志向が高まっているという訳ではなくて、娘がうるさいのですね。水道の水はダメだとか。誰の健康のためかというと孫の健康のためです。こういうのはエスノグラフィをやらない限りはわかりません。
それから一部私が撮った写真もあります。左の上のコストコのカラーボール。これがなぜ家にあるのか?私が遊ぶのかと(笑)。これね、孫がビニールプールに入れて遊ぶためにあるんです。年間の使用頻度なんて五回です。でもこんなものに我が家のクローゼットは占拠されている訳です。私たちも終活が近づいてきている訳ですから「シンプルな暮らしになりたい!」なんてね、、、なれないわけですよ。断捨離している対象物はほとんど私のものです。最近も買取王子に引き取ってもらいましたけれども。
それから、こちらの写真はプラレール。プラレールが置いてある70代の家って何なんですかね?つまり、居住空間そのものが今風に言うともの凄いシェアされてるんです。機能がシェアされてる訳です。昔はそういうことがなかったと思います。昔はおじいちゃんおばあちゃんちに行くと、そのうちの作法に適合しないといけなかった。暗い土蔵に行くのやだなぁとか、今は作法がイーブンになってしまっている。
後のカラーボール はコストコのカラーボールですけれども、コストコの店頭でこれ山ほど積んでありますけれども、それだけ見るとなんだかわかんないです。何に使うんだか。
今日お伝えしたかったのは青空ごはんというシーンがあります。行動のパターンがあります。行動がデザインされています。これを見ることによって、価値のあるシーン、食べるということに関する価値あるシーンがどのようにできているのかが見えてくる訳です。先ほどから申し上げているように時間と手間・暇という、いわば、人が自ら動くという手段、普段やらないよねというような材料をかけて、それから普段使わないような道具を使ってそこに最終的な自分たちなりの楽しみ、これはイメージでしょうね、それがあって、初めて価値のあるシーンだと言い切れるんだなと思っています。そういうところに登場する食事こそご馳走だと僕は持っています。立派な食材を使って立派なキッチンで作ったフレンチはご馳走という訳ではないんです。そういう視点でいろんなことを再編成していくと、いろんなキッカケになるんじゃないかなと思います。
なんにしても入り口は冒頭にお話した、老夫婦の護国寺でのお弁当です。これは素晴らしい。20代の付き合い始めのカップルはこういうものを作りません。彼氏をゲットするためのお弁当みたいな情報をネットで見まくるでしょ、そういうのを持って行ってもあんまり面白くないじゃないですか。こっちは“人生”という時間と手間がかかったあげくの果ての二人飯なんです。そういうシーンが頻度は多くないけれどもあるという事です。
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